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藤田嗣治の戦争画と永春文庫「春画展」 [展覧会]

今年、国立近代美術館「特集;藤田嗣治、全所蔵作品展示」で多くの戦争画と永春文庫「春画展」で大量の春画を観ることができた。藤田の戦争画は戦後70年近く経って封印から解かれ、そして一方の春画は昨年の大英博物館「春画展」の結果「世界が、先に驚いた」と宣伝せざるを得ない外圧での解禁開催?か。いろいろな戦争画に関する出版も増えたし、修正無しの春画大型本が書店の美術コーナーでママ置かれるようになった。戦争画と春画を、誰もがニュートラルに観られるようになったのは喜ばしい、いずれも老夫婦から若いアベックまで多勢押し寄せていた。特に永春文庫「春画展」には16万人だそうだ、すごい!。でも、こんなに時間が必要だった!やっぱり外圧だった?」と、よくよく考えてみよう。
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アイデア満載「赤瀬川原平の芸術原論展」 [展覧会]

この展覧会を通して60年代に始まる「ネオダダ」や「ハイレッドセンター」の状況がリアリティを持って感じることが出来る。昨年の「ハイレッドセンター:直接行動の奇跡」展のカタログが240P、今回のカタログが450P、二倍近い資料に圧倒される。もちろん「ハイレッドセンター」時代は一部だが、良くこれだけの資料が集められたと感心する。一回りで二時間半もかかった展覧会は滅多にない、本当に疲れた。この人の「千円札裁判」も含めて、深刻さを感じさせない表現の発展やアイデアは、若い頃のデザイナー経験のせいだろうか。クールでどこか突き放しているようにも思える。意外と身近なそして面白い芸術家だった「赤瀬川原平」さんに合掌。
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フィオナ・タン-まなざしの詩学 [展覧会]

東京都写真美術館での「フィオナ・タン まなざしの詩学」を観てサイネージと言うのは映像ではなく「動くポスター」としてのクリエイティブだと改めて確認した。2008年のインスタレーション作品「ブロヴィナンス」はモノクロで縦位置、照明が素晴らしい動くスティール写真だ。サイネージならではの「動かない写真と動く映像の融合」の先駆けとしてクリエイティブ手法を明確に示している。一方で、映像作品「影の王国」の中での「真の写真は共同体にしか撮れない」「良い写真の判断基準は自分にとって有効か否かである」の二つの言葉は「素人写真」の私には心強いメッセージだ。ところで、写真美術館が改装のため長期の休館に入るのは残念だ。
↓作品「ブロヴィナンス」
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ガラスの家は障子の家かも「建築家ピエール・シャローとガラスの家」 [展覧会]

この展覧会を観て直感的に感じたのはいずれも写真だが「ガラスの家」のガラスブロック壁での採光は桂離宮「新御殿折曲り入側縁」の障子戸そのままではないか?さらに上階で窓を開けて外の木々の緑が見える風景は、障子を開けて縁側越しに眺めた日本の風景だ。桂離宮と言えばブルーノ・タウトだが日本で彼が桂離宮を絶賛したのは1933年、「ガラスの家」が創られたのが1927年から1931年なので直接的な関係は無いのだろう。19世紀には浮世絵などのビジュアルや工芸が「ジャポニズム」として流行し、19世紀末から20世紀にかけては日本の建築空間や精神的なものが先進的な人たちに影響を与え、当時のモダン建築に取り入れられているのか。ピエール・シャローとガラスの家を知らなかった素人にはまだまだ知らないことがいっぱいある。
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ヘコタレナイ漫画家、下川凹天(しもかわへこてん) [展覧会]

一人の漫画家の人生を二つの展覧会で追うことが出来た。昭和初期から戦争を経て戦後迄の漫画界の集合離散を凹天を軸にして良く解った。野田市立郷土博物館「野田で生まれた漫画たち」展と、川崎市立市民ギャラリー「下川凹天と日本近代漫画の系譜」展だ。凹天は沖縄宮古島で生まれ戦後は野田に移りキッコーマンの茂木房五郎の食客となり没する。私の新しい発見は、凹天が「実習指導 漫画の描き方」(弘文社1943年)で漫画を分類し、その中の「トーキー漫画」だ。戦後の劇画の源流が既に戦中の漫画にあったのだろうか?!劇画は手塚治虫からの出発が定説だが?。凹天は「トーキー漫画」は批評と滑稽が無いから漫画ではないとも書いている。劇画の源流かも知れない「トーキー漫画」ぜひ読んで、観たいと思う。
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「アンディ・ウオーホル展」 [展覧会]

彼の時代が、垂直的に編集されこれだけの作品を観られる機会は日本では無かったと思う。コマーシャルアートを勉強し、ニューヨークでデザイナーで成功、そこで終わらず「これからはアートビジネスの時代」と言いアトリエを「ファクトリー」としてアート作品を生産、さらに「オフィス」と呼んで「アートビジネスのマーケティング」に進んだのはいかにもアメリカ的だ。アメリカでは「学校の教科書に必ず出てくるアーティスト」だそうだが「アートビジネス」での成功者でもあった。今回、私の一番の感心は日常の身の回り品を段ボール詰めにした「タイムカプセル」で、この行為はポップ・アートの実践そのものだと思うし、彼が死んだ後こそ意味が生まれさらに増大している。ところで今回の展覧会は、シンガポール・香港・上海・北京・そして東京が最後の巡回だそうで、アメリカの東アジア戦略と文化戦略の一つだろうか?そう思うとクールジャパンは?日本の東アジア戦略とアートはどう成っているのか心配になった。
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福島に連なる「田中正造をめぐる美術」展 [展覧会]

「佐野市立吉澤記念美術館」は小さな美術館だったが、田中正造と足尾鉱毒事件の今に連なる事を観せて貰った。百年以上前の「渡良瀬川の大洪水による鉱毒被害拡大、汚染土壌の除去、谷中村の強制破壊と立退、遊水池化」。今回の「震災事故による放射能拡散、見通しの立たない除染と帰還、土地の政府買い上げ案」など同じことの繰り返しに言葉が無い。丸木位里・俊が「原爆の図」や「足尾鉱毒の図」を描いたのは「絵を理屈ではなく、感じるでも無く、その空間に入って対象と一体に成る」事を求めてだろう。大きな屏風やかけ軸に仕立て限られた空間に展示されたその前に立ち(座り)否応無く絵の空間に入ってゆく、日本の障壁画の伝統的在り方を手法に社会的テーマを訴求した。理屈ではない絵の在り方がここにはあると思う。
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小さなワタリウム美術館。寺山修司展『ノック』 [展覧会]

恥ずかしながら私が一番親しんだのは「競馬評論」だった寺山修司。世界的に演劇公演をし、なぜあれほどイメージを広げる事が出来たのか?幼い頃の三沢と青森の原風景と親戚が経営する映画館での映画だろうか。そんな思いが浮かびながら、中学生のころからの俳句や短歌に凝縮されたイメージが映画や演劇へと3次元化してゆく過程を振り返れた。そして、その究極は観客から街までも巻き込んだ市街劇『30時間市街劇ノック』なのだろう。ところで、彼の中学生の通信簿にはこんな記録もあった、知能指数119/偏差値60。学制改革が進む昭和25年ころだ。私のころにはそんな記述はなくなっていた。
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造反有理!?「日本写真の1968」東京都写真美術館 [展覧会]

「世界的にあらゆる領域でこれまでの枠組みに対して根源的な問いかけと異議申し立てが行われていた」とサブタイトルにあるがそんな思いで観る前に、目の前の出来事や濁中にいたころの写真や読んだ本が生々しい。ここに写っている当時の若者達の顔には何か真剣さがある様に思えるのは自分達の時代に対する思い入れだろうか。先輩が参加している「ゼロ次元」の新宿でのパフォーマンス映像もあった、そう言えば高校の文化祭でも同じ様なパフォーマンスをやったな〜。そう「造反有理」の壁新聞を思い出す。そうだ、新宿淀橋浄水場の跡地で仲間と作った前衛?8ミリ映画はどこに行ったしまったのだろう。
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「カリフォルニア・デザイン-モダンリヴィングの起原」展 [展覧会]

レイモンド・ローウィがデザインしたスチュードベーカー「アヴァンティ」は数週間でデザインされたそうだ。「カルフォルニア・デザイン」の時代、日本の50年代から60年代は映画「三丁目の夕陽」の時代だ。カラフルで明るくモダンな生活は当時の日本では「ベース」と言われた「米軍基地」にしかなかったかも知れない。「モダンリヴィングの起原」と総括されているが私たち日本人にはいまだに大方の生活デザインやインテリアデザインだろう。その「カルフォルニア・デザイン」の終わりはアメリカではベトナム戦争が泥沼に入りカウンターカルチャーが起こる1965年だそうだ。ところで多くの見学していた若い人たちは1965年からその後の世界をイメージ出来ないだろうと思った。それは私の青春時代だから。
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鯛画二題「由一の鯛図・龍三郎の鯛」 [展覧会]

野田、キッコーマンの町にある「茂木本家美術館」は細かな目配りの利いた、小ぶりで素敵な美術館だ。富士山のコレクションも集まると見応えが出てくる新しい発見をした。創立者、茂木七衛門が好きだったと言う梅原龍三郎の「鯛」は立派で存在感があり私にとっても一番だった。「鯛」と言えば、笠間日動美術館蔵の高橋由一「鯛図」も素晴らしい。昨年の「高橋由一展」で初めて見たが、明治洋画の写実性は浮世絵に通じるディティールの素晴らしさだ。この二点を並べて観られたら大変面白いと思う。「龍三郎の赤い鯛」「由一の白い鯛」を並べて「紅白の鯛」。素晴らしいと思うが、如何だろう?
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懐かしむだけかな、埼玉県立近代美術館「日本の70年代1968-1982」展 [展覧会]

地方美術館の、いい所なのか限界なのか?そんなことは大それた事で出来ないのか?テーマである「70年代」が総括がされないまま、ごった煮のように集められ提示された展覧会だ。だけどそれはそれで懐かしく廻ることが出来る。「アンアン」の創刊号は無くしてしまった!「ポパイ」「ブルータス」の創刊号は持っている、あれは覚えている!あそこには行った?なんてつぶやきが終始できたし、楽しい展覧会だった。「カタログ」も「難しい論文」が載っていないしフルカラーでもリーズナブルだ。「カタログ」は買ったし、帰ったら物置と段ボール箱をひっくり返し自分のコレクションを引っ張り出して、飲みながら楽しむ事にしよう。
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「ビートタケシ・きたの」のアートマネジメント?「絵描き小僧展」 [展覧会]

9月2日で終わってしまったが「絵描き小僧展」は面白かった。ヤッパリ「ビートタケシ・きたの」は天才なのか?表現をするという事に遠慮やバリアーがないし、今の「北野武」は何でも出来る・何でも創る事ができる社会的な力があり、それを活かしているな〜と実感させる。プロデューサーは誰だか知らないがヨーロッパで認めさせてから日本に持ち込み、展示会場では最初と最後にタブローを持って来て「絵描き」であることを確認させ「絵を欲しくさせる」構成は戦略的だ。これがフランス流「アートマネジメント」なのだろうか。
しかしこの年でこの絵が描けるとは素晴らしい、「ペンキ屋のせがれ」の下町原風景なのかな。
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「生きるための家」展 [展覧会]

同じ「都美館」でも「フェルメール」(マウリッツハイス美術館展)を見るための行列を横目に「生きるための家」展に来てしまった。私の関心は「生きる(意味の)ためのデザイン」は「生きのびるためのデザイン」とどう違うのか。カタチや空間はどうにでも作れる様に成ったと思える現在、3.11後の生きる意味、家族・人との関係がどう提案されているのか。「なるほど」と思える作品はあったが「凄い」と言えるものは無かったかな〜。面白かったのは「一本の大きな木の中に彫りながら棲む」で、先日放送されていた「98歳になるホームレス」が造りそうな住まいに思えた。
生きるための家展.jpg一本の木の家.jpgクリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ 表示 - 非営利 - 改変禁止 2.1 日本 ライセンスの下に提供されています。
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「具体」と吉原治良のマネジメント [展覧会]

具体的な成りゆきはあまり知らなかった「具体」だが、始まりから終わりまでを吉原治良がマネジメントとプロモーションをしていたからこそ「具体」が世界的に実績を残せたと言える。吉原製油の経営者としてのマネジメント力があってこそ芸術プロデューサーとしても成功したのだろう。活動も終わりに近い1970年大阪万博での「具体美術祭り」は音の残っていない映像で見る限り、今から見れば正直学園祭レベルと言ったら失礼か。それでも「具体美術協会」のパフォーマンス活動が60年近くも前に始まり、それを育て歴史に残した吉原治良は凄い。ところで「昔は芦屋のお屋敷街の新取の気風と財力が、ファッションや文化の新しい風を関西から起こした」と思っていたが、「具体」もその一つかもと思うがどうだろう?
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上質なあかりの演出が光った「アールデコ/光のエレガンス展」 [展覧会]

生活空間にこだわるパナソニック汐留ミュージアムだからこその演出が素晴らしい。特にガラス作品の、上方からのダウンライトと底面からの小さなLED照明が、ガラスと空間と光の交差で当時の雰囲気を醸し出しているように感じる。ライティングが素晴らしいテーブルセッティングも他の美術館では多分できない。出口近くで振り返って眺めた時のどきどき感や黒と照明のシンプルな空間。この「光の演出は持ち帰れない」ので、とてもカタログやハガキを買う気にはなれなかった。勿論、本物のルネ・ラリックを買う財力もない。そう言えば昔「エレガンスの辞典」と言う本を持っていたが、残念だがなくしてしまった。
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ADC展/グラフィックデザインの潮流は白か? [展覧会]

会期ぎりぎりの「ADC展」(銀座3G)に滑り込みで行ってきた。日本のグラフィックデザインのトレンドは白地になっているのではないか?先日発刊された「JAGDA年鑑2012」を観ても「白」が気になっていた。白地の作品にはホワイトインクを敷き白地が表現された製版をしている。20年前の「JAGDA年鑑」と比べるとはっきりと白地の作品が多くなっている。そんな傾向の中でADCの先生達は今、アナログの痕跡を残した作品を創っている。制作がデジタルに成り、有機的な質感から無機的な質感デザインが大勢となった今、デザイナーは改めて紙と質感にこだわり手作り表現に向かっている。
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やっぱり全部読んでみよう「地上最大の手塚治虫展」 [展覧会]

今までいくつもの手塚治虫展があったと思うが、作品の「テーマ/内容」をコンセプトにしたのは昨年の「手塚治虫のブッダ展」位だったかな。世田谷文学館だから手塚治虫の作品を「これからの時代を生き抜くために手許に置くべき<文学>である」と位置づけ、作品を見るのではなく読んでもらう企画にしたのは新鮮だ。だから全作品を読めるコーナーがあり「地上最大の手塚治虫展」なのだろう。でも、半日ではとても読み切れない、気になり始めたら全作品を読んでみたいと思い立ってしまった。そう、やっぱり電子ブックで。この志を忘れないためにミュージアムショップから我が家に「ヒョウタンツギ」貯金箱に来てもらった。
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鮭よりも鯛が好きだ「近代洋画の開拓者  高橋由一展」 [展覧会]

「私も重要文化財の「鮭」は知っているがその他はほとんど観た事がなかったか?いや「花魁」「山形市街図」を観た事があるくらいだ。これだけの数の人物画/風景画/静物画を観る事が出来て、一番に思うのは写実「リアルに描く」ことの在り方だ。写実が「写真的にリアル」と言うのは写真が普及してからの概念だとすると、遠近法を採り入れながらも対象のディティールにこだわり、浮世絵の強調構図を生かし描くのが高橋由一の、そして当時の写実の概念なのだろうか。風景画では浮世絵風な近接拡大構図法による遠近の強調で描かれた「芝浦夕景」は、現在で言えば広角レンズによるドキュメンタリーだ。人物画はディティールが強調され対象の実態を抽出する、劇画家が描く肖像画の様だ。そんなこんなで静物画では、私としては「鮭」よりも妙な存在感・リアリティーが在る「鯛」(鯛図)が好きだ。
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「劇画派?」/「蕭白ショック!曾我蕭白と京の画家たち」展 [展覧会]

「ボストン美術館日本美術の至宝展」で曾我蕭白は凄いと思っていたら千葉市美術館で「蕭白ショック!曾我蕭白と京の画家たち」展をやっていた。やっぱり蕭白は「日本の劇画の原点」だと勝手に思い込み、確信を持ってしまった。水木しげる「ゲゲゲの鬼太郎」の先祖だ。私ならこの展覧会に「劇画派?蕭白、妖怪を描く」と言うコピーを付けたい。と言っても蕭白35才前後の作品が中心だが。確かに、晩年の京都で画風を完成させ、日本画の異彩としての作品は素晴らしいが「劇画派?」の頃と比べると面白くない、と思う。伊勢の辺りで「劇画派?」の頃自由な絵が描けたのは、時代か?環境か?若かったからか?
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オールオーバーな絵の中から東洋に入った?「ポロック展」 [展覧会]

「ポロックはぶれていない 」が私の感想だ。最初期の「自画像」から「インディアンレッドの地の壁画」そして晩年のモノクロのシリーズまで、ポロックは生まれ育った西部ネイティブアメリカンの表現を発展させようとしていたのではないだろうか。ネイティブアメリカンの砂絵「絵の中にいる」オールオーバーな絵。「私は床で絵を描くけれど、それは別にそんなに変わったことじゃない。東洋では普通にやられていますよ」こんな言葉から、中心の無い東洋画/日本画にも影響されていたのではと思う。 例えば「ブラックポーリング」は棟方志功だし 55番の「Untitled」はまるで「風神雷神」だ 「Black and White Polyptych」(下)は屏風仕立ての墨絵でもある、と思い当たったりしている。こんな思いは仮説の入り口だが、もう少し私流の空想を楽しんでみたい。
ポロック展.jpgポロック2.jpg
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流出とはこう言う事か!「ボストン美術館・日本美術の至宝」展 [展覧会]

どうしてこれ程のコレクションが日本から流出してしまたのか、エジプトの美術品がナポレオンによって持ち去られたり、大英博物館に行ってしまったり、そんな悔しさと同じだ。何故って、表装のママで「額」に収まってしまった作品を見て「あ〜あ日本に在ったら無事だったのに」と思わざるを得ない。それにしても「持ち去った?」フェノロサやビゲローの眼は確かだ。中でも「曾我蕭白」の「雲龍図」は凄い、大パノラマでこんな襖絵は見たことがない、蕭白は江戸時代の劇画家だ。「「平治物語絵巻」も素晴らしい、絵巻物とはカメラが右から左へパンする映画的物語だと、今回改めて確認出来た。快慶の「弥勒菩薩立像」もイイ、小袖や帷子もすごい!尾形光琳の「松島図屏風」も大好きだ。全く「抹香臭くない」モダンな展覧会になっている。
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↑天地1.6m×幅10m強もある!
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1930年代、「都市から郊外へ-1930年代の東京」と「昭和陸軍の軌跡」 [展覧会]

世田谷文学館の「都市から郊外へ-1930年代の東京」展では、文学・絵画/彫刻・写真・版画・映画・音楽・住宅・広告などを”てんこもり"に見せられて、1930年代は自由でクリエイティブでいい時代だったんだな〜と思わせられた。一方で、同じ時代を扱った「昭和陸軍の軌跡/永田鉄山の構想とその分岐」(川田稔)を読み終わって、永田鉄山/石原莞爾ら昭和陸軍にも冷静な戦略構想があったようだが、政治の側に戦略判断能力とコントロールの力が無く、戦争に向かってどうしようもなく山が動いてゆくドキュメンタリーを観ているような気分になった。消費税を巡る今の民主党を見ていると、戦前の陸軍統制派と皇道派の抗争と同じように思えて成らない。
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時間の縦軸と空間の横軸-フェルメール二つの展覧会 [展覧会]

意図して二つの展覧会が同時に開かれたのだろうか?フェルメールの時代・風俗に作品を重ねて考える事が出来る「フェルメールからのラブレター展」と、「リ・クリエーション」されてフェルメールの全ての作品を年代順に原寸で観られる「フェルメール光の王国展」。両方を観ると、当時の社会風俗との関係を空間(横軸)として、作品の流れと変化を時間(縦軸)として交差させて考える事が出来る。自分が評論家になった様な気分にしてくれる新しい鑑賞体験だ。どちらを先に観るか?渋谷と銀座と言うリアルな空間を移動し右脳と左脳を交差させ、数少ない作品のディティールに迫る面白い展覧会だった。
フェルメールからのラブレター.jpgフェルメール光の大国.jpg
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「バラック装飾社」はソーシャルビジネス?!今和次郎「採集講義」展 [展覧会]

デザイナー、装飾家、建築家、考現学者、生活学者。好奇心と使命感?による知と実践の拡大 が、ジャンパーを着ていながらスマートに見えるのは無欲のせいか。関東大震災後の「バラック装飾社」の活動は現在のソーシャルビジネスの走りだろう。3.11後の日本を考えると、後藤新平の雄大な構想と今和次郎の地べたの実践、この両極端を現実の施策で繋ぐような政治が今必要なのだろう。私の好奇心は南方熊楠から今和次郎、そして鶴見俊輔から石子順造へと変わっていったが、何れにしても今和次郎の貪欲な「この好奇心」は私の先生だ。
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滝口修造とマルセルデュシャン展 [展覧会]

「大芸術家の遊びは芸術」と言ってはおこられてしまうだろうが、コンセプチュアルなオブジェでの楽しい展覧会だった。「作品のディテールをこね回し難しい意味をつなげる」仕事をする人も必要だが、「明快で直感的なアイデア」のオブジェでの表現は、遊びとしても受け入れられる。滝口修造と言う人が、評論と言うバーチャルからモノと言うリアルへと移っていったのは何故か?。ひょっとしてデュシャンの行為がオブジェによる20世紀の美術評論だとするなら、滝口修造が言葉での評論からモノ(オブジェ)による評論?表現?へと移って行ったのも理解できる「ような気がする」。これも言葉の遊びかも?
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美術発・マンガ経由・キッチュ行き「石子順造的世界」展 [展覧会]

やっぱり!このような企画に足が向いてしまう。鶴見俊輔から石子順造に関心が移って、マンガ評論を積極的に読んだ'80年代が懐かしい。石子順造が亡くなって、すっかりマンガ関連の本を読まなくなったのは「自分に取って面白いマンガ評論が無い」からだったように思う。ここ、府中市美術館で、つげ義春の劇画「ねじ式」の原画が揃って観られたのは収穫だった。ところで、同じ「絵はがき」でも国立歴史民族博物館の企画展「風景の記録」では「ステレオタイプの変遷としての”価値”」こちらでは「キッチュとしての”意味”」として取り上げられていて「意味と価値」について考えさせられた。どうでもいいことかな?
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「ゴヤ展」/ロス・カプリーチョス [展覧会]

写真が未だ無かった19世紀前後の、記録としてのタピスロリーや肖像画の第一人者だけでは収まらなかったたゴヤ。タピストリーの原画は今風に言えばポスターのデザイン原画だろう。構図を際立たせる明るくシンプルな色彩と明暗のコントラストの中での表情(心理描写)が際立っている。私は「着衣のマハ」より「自画像」や、4〜5段階の明暗構成でまとめた版画の方が好きだ。勿論、人間描写やカリカチュアは素晴らしいがプロパガンダやテクニックに眼がいってしまうのは性が?
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瑛九とモホイ=ナジ「フォトデッサン」と「フォトグラム」 [展覧会]

「フォトデッサン」と「フォトグラム」が同時代に交差していて、埼玉県立美術館の「瑛九展」以来、気になっていた「視覚の実験室モホイ=ナジ/イン・モーション」を川村記念美術館に行って観てきた。瑛九は「フォトデッサン」と言いモホイ=ナジは「フォトグラム」と言われている、多分「フォトグラム」が上位概念なのだろう。瑛九は有機的なイメージを手の痕跡を残して無機化しており、モホイ=ナジは三次元を二次元に再構成し定着させる手段としている、と私なりに勝手に納得した。瑛九の「フォトデッサン」は素晴らしいが、いずれもこの無機的なイメージ感覚が私は好きだ。
左が瑛九「眠りの理由」より/右がモホイ=ナジ「自画像」
瑛九「眠りの理由」より2.jpg 額縁.jpg
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飯田樹写真展 [展覧会]

パンフレットを見てどうしても気になり、いすみ市郷土資料館/田園の美術館まで行ってきた。海の写真は素晴らしかったし、シャープネスとコントラストの強い大きいプリントは大画面の液晶TVを見ているようで心地よい。奇麗だと思いつつ、でも何か違和感を感じる。そう言えば私の眼も写真家・藤原新也の言う「デジタル化する人間の”眼”」に成ってしまったのだろうか?そうだとすると何か自分の感性にとって大事な変化が起きている様な気もする。色々との写真展を巡って検証してみよう。救われたのは作家の「うみをゆるしてください」と言うコメントだった。
飯田樹写真展2.jpg
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